2004年05月25日

白いカミーユ、白いゼータ

(栄輝)>ガンダムエースは今日の帰りに買うつもりなので、まだ件の記事は読んでないわけだが。
(A機)>シャア専用ブログさんところのこの記事ですね。
(栄輝)>カミーユの屈折っていうのは、“両親不在”につきるんじゃないかと思っている俺としては、自分の不幸を克服していこうとするカミーユっていうのは、すごくステキなことだと思うのよ。
(A機)>前のメモでもそんなことが書いてありましたね。(04.05.11)
(栄輝)>おー、書いてあるね。「克己することなく代償に走ったことが彼の弱さだ」か。まったくそのとおりじゃん。親無し子といえば、『ブレンパワード』のユウとヒメの関係なんかもまさにそれで、ユウは親を憎み反撥するところからスタートしている。ヒメは親がいなかったという不幸からは自由だったように思える。ユウは最後には親を認めていたようなフシもあって、彼はその問題とは決着をつけないままだったような記憶があるけど、そのかわりにジョナサン・グレンが親を赦した。
(A機)>カミーユはどうするでしょうね。
(栄輝)>あっさりと親を赦すことはしないと思うよ。いや、ひょっとしたら親の問題(クライシス)を回避した、健全なカミーユとして行動するのかもしれないな。たとえば、1話で憲兵に尋問されていた時のカミーユっていうのは、本気でおびえていただけの、ただの高校生だったと思うのよ。怖がったり、腹を立てたり、無謀な行動に出てあとで後悔したり、後先考えずに飛び出していったり、大人の女性にモーションかけたり。
(A機)>やってることは、普通の若者だと。
(栄輝)>最初から癇癪持ちだったかもしれないけど、行動力はあったわけで、そのまんまに走り続ける主人公であれば、エンターテインメントとしては楽しいものにできるかもしれないわな。
(A機)>ふむ。
(栄輝)>彼が内面吐露するのは「灼熱の脱出」のところだけでいいんだと思う。
(A機)>あれもよく考えれば、「カミーユという名前は女の名前だから嫌いだったけど、今は好きだ。自分の名前だから」って、ちゃんと自分を肯定していますね。
(栄輝)>そう。カミーユはじつは前向きで、肯定的な若者だった。あとは、カミーユにとってのハッピーエンドとは何か、がポイントになるんだと思う。この件についてはあらためて考えることにしよう。
posted by 多村えーてる at 17:30| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Ζ GUNDAM | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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