(栄輝)>このあいだの日曜日に「スターウォーズ3」を観たんだ。
(A機)>おお、きましたね。そろそろくるんじゃないかと思ってましたよ。
(栄輝)>そしたらさぁ、なんというか、いい映画なんだよコレ。若者が父親を乗り越え、運命を乗り越え、成長していく。イニシエーションの映画なのな。
(A機)>ふむふむ。
(栄輝)>最初に観たときは、ヘンな動物でお茶を濁したりして、ルーカスも子供に媚びるようになったら終わりだな、なんて思っていたんだけど、違うのな。
(A機)>ほほう。
(栄輝)>あれは、若きスカイウォーカーが父親と訣別するという、苦い成長を待避させるための滑稽な絵なのな。すべての成長とは、極私的なことであって、他人に感傷をふりまくものじゃあない。だから、最後は仲間たちのもとに戻ったワンショットで終わるわけ。
(A機)>なるほど、父親と訣別…って、父親? アナキンの父親が出てくるんですか?
(栄輝)>なに言ってんの? アナキンはルークの父親だろうが。思うんだけど、特別編でデススターの破壊に成功したときに、銀河のそこら中でお祝いやってるじゃん。あれは余計な付け足しだったんじゃないかなぁ。あくまでエンドアという辺境の惑星でつかんだ勝利の糸口っていうことで。無理に、天下分け目の関ヶ原みたいなノリにする必要ないと思うんだよ。そのほうがルークの成長譚に合ってるよ。あれこそルーカスが人に言われてしぶしぶ挿入したシーンだと思うよ。
(A機)>…それ、「エピソード3」と違うじゃないですか。
(栄輝)>誰もそんな“行きたいのに忙しくてなかなか予定が立てられないでいるうちにそこかしこで「観た」「観た」と感想を目にして悔しい思いをしている劇場作品”の話はしてませんよ?
(A機)> つД`)だまされた。すっかりだまされた。
(栄輝)>当時は銀河の雌雄を決する宇宙大戦のクライマックス、と思いこんでいたから、あんな辺境惑星で森のクマさんたちが活躍してしまう展開や、全員身内というか、なんでもかんでも親子関係に収斂させちゃったことが、結果的にスターウォーズという作品からスケール感も壮快感もスポイルしちゃったような気がして、心から「ダメじゃん」と思ってたんだよなぁ。でも、そういった「壮大な」とか「銀河大戦」とか「サーガ」とか、あおっていたのはメディアのほうで、ファンもすっかり乗せられてしまったけど、じつはルーカスがやりたかったのは、もっと私的なイニシエーションの話だったんじゃないかと。だから、あのイウォーク・セレブレイションの滑稽さこそが、スターウォーズの物語の締めくくりにはふさわしかったのかもしれないな、と。
(A機)>「ジェダイの復讐(帰還とは呼ばない)」をどう受け入れるかは、ファンにとっては試練のようなものなんでしょうねぇ。あの銀河皇帝が手からビビビとか、あっさり投げ落とされておしまいとか、そういうのもオッケーなんですか?
(栄輝)>当時は指先からビビビにはあきれかえったものだけど、そのあとエピソード1・2でビビビとやられたあとにみると、ちっとも違和感なかったよ。で、銀河皇帝が投げ落とされて死んで何が悪いの? 普通あんなところに放り込まれたら落ちて死ぬだけだよ? ジェダイ騎士でもないかぎり。
(A機)>でも、諸悪の根元、銀河皇帝ですよ?
(栄輝)>いや、そこなんだけど、あの世界は、偉い人ひとりやっつけたらすべての政治がひっくり返るようなちっぽけな世界なのかと。銀河皇帝がやられたとか、デススターが破壊されたとかは、帝国の支配体制が盤石なものになりそこねたことを意味しているから、政治はひっくり返るのかもしれないけど、それはこれからの話であって、ルークや反乱軍がつかんだのは、やっぱりまだまだ小さな勝利なんじゃねーの?と。小説で延々と続いているらしいあとの物語がどうなってるのかは知らないけれど、唐突にでてきたご老体をやっつけてことたれりとは到底思えないわけで、銀河皇帝なんてでっかい名前背負ってるけど、ヤクザの親分でしかないじゃん。
(A機)>うはぁ、新解釈?
(栄輝)>いま考えた。