
齋籐孝氏はこの1〜2年は異常なペースで新刊が出ていて、全部をおいかけるのが困難なくらいである。このあいだ知人にスポーツ新聞をみせてもらったら、連載持ってるのを見つけて驚いたり。本当にパワフルな人だ。
本書も例によって、いろいろと示唆に富んだことが書かれている。そのエッセンスや本筋はこれから読み進めていくうちにまた取り上げることもあると思うけど、半分まで読み終わった段階であっと思ったのは以下のような指摘。
氏曰く、数学やスポーツの世界では系統立てた考え方や客観的なレベルの高さというものが重視され評価されているのに、絵画、音楽、文学といった芸術芸能の文化ではそういう流れがスポイルされているという。ヘタうまがもてはやされ、正しく学んできた高い技能などが正当に評価されていない、と。
氏は、ゲーテが「あくまで質のよし悪しにこだわっている」ことを評価し、客観よりも主観が重視される現代日本の風潮を嘆いている。客観的なモノの見方が通用しなくなり、主観的に好き嫌いで語られがちな世の中を嘆く。
以前から、自分よりも若い世代に見られる問題点があるとしたら、彼らには規範となるものがないからだと思っていた。公共の場での無軌道な振る舞いは、何が正しく、美しいのかという規範を自分の中に醸成できていないからだと。この流れが、芸術・芸能の世界にも蔓延しているらしい。ネットの中だってそうだろう。
インターネットが世の中に普及しはじめたころ、「ホームページは個人が世界中の人に情報発信できる新しいメディアだ」と言われていた。世界中の誰かに何かを伝えるのならば、そこには達意の心が落とし込まれているはずで、伝えたいことを明確に伝えるためには何を、どのように書くべきなのかと、心を砕いてつくりあげられるべきだろう。しかし、ブログの多くは、個人的な印象ばかりが綴られており、中には本当にぼんやりとしたことしか書かれていないサイトも多い。Seesaa のトップページの新着一覧をみるたびに、強く感じる。
たとえば、小中学校の子供たちの国語教科書には、いま森鴎外の小説はない。夏目漱石もどんどん消えていっている。変わりに現代作家のものを入れようということらしいが、現代作家のものも何年かごとに入れ替わってしまうので、いまは世代を超えた共通のテキストを持つことができない。ぼく自身、語れるほどに文学作品を読んでいるわけではないし、クラシックもかなり散漫とした知識しかない(十代までヴァイオリンを習っていたのに、こんなもんだ)。まして絵画については、いくつかの作品と画家の名前が一致する…その程度の知識しかなく、これはもう教養以前の問題になる。このことについては大いに反省するべきことだと思った。まだまだ学ぶべきこと、身につけるべきことはたくさんあると思い知らされた。
元来、絵を語るときにも音楽を語るときにも、いわゆるビッグネームを中心にすれば価値認識を共有していくことができる。だが、モーツァルトについてどう思うか、セザンヌについてどう思うかと意見を交換していく場で、共有できるテキストがなかったら、文化としては致命的である。なぜなら、それぞれがバラバラの知識を持って語り合うことになり、お互いの審美眼を鍛え合う機会を失ってしまうからだ。
さて、それはともかく、こういった系統だてた知識の欠落や価値認識を共有できないという問題が、ガンオタやアニオタの世界にもかなり拡がっていることはいくつかのオタクの偉い人たちが指摘している。本当に、会話をすりあわせるだけでもひどく苦労するというか、そういうことに対してハナから逃げる人たちがとても多いのだ。世代が若くなるほどに、そのギャップは強まる。
わかるつもりもない、わかってもらうつもりもない。これでは生きることはとても寂しいだろう。
今日のまとめとしては、そうだな、オタクはオタクで、教養を身につけろ、と。
先日、仕事関係の知人に、Newton について説明する機会があった。その人は最後に「はなしを聞いて、Newton がとてもほしくなった。いまの仕事やめて、Newton のセールスマンになればいいのに」と言ってくれた。自分には、まだ熱く語ることができるんだとわかって、少しほこらしかった。
私はクラシックを聞き始めたのはロックやブルースなどある程度聴いてしまって(?)からのデビューでした〜。
モーツァルト、バッハ、ベートーヴェン、ショパン〜とどんどん広がりましたね。また、現代音楽へかなり影響を与えたジャンルですし、「古くて新しい」素敵な曲が目白押しで、まだまだいろんな発見の出来るクラシックをとても楽しみに聞いています。
ところで、私もブログで「ゲーテ」の記事を生い立ちを中心に書いてみました、よかったら遊びにいらして下さいね〜、ではまた!