2005年05月25日

いま語らないと一生語れないΖガンダム

(栄輝)>つまりは、劇場版みちゃうと、いろいろと相対化しちゃうからうまく語れなくなると思うんだ。
(A機)>一ヶ月ぐらい前からブツブツ言ってたわりには公開三日前にしてようやくですか。
(栄輝)>だからあせってるんでしょうが。もとはといえば、先月のガンダムエースの氷川さんのテキスト「ガンダムの時代・第35回」を読んだからなんだよな。
(A機)>“ガンダムファンにとっては2本目の作品で、世代によってはこれが1本目になるのだろうが、6〜7本目にあたる我々はとらえ方がまったく違う。”という一節ですね。
(栄輝)>そう。氷川さんとは9歳違うから、ほぼひとまわり歳が違うんだけど、俺にとっての『機動戦士Ζガンダム』も、まず、ずっと見守ってきた金曜夕方5時の延長線上の作品だったんだよね。あのザンボット3の最終回になんともいえない涙をうかべながらそろばん塾に通ったことや、「光る宇宙」を見終わってあまりに壮絶な最終回だと興奮した翌週にまだガンダムが放送されたことの衝撃や、イデオンを経てザブングルの1話にガツンとやられたり、ダンバインの「東京上空」にふるえたり、エルガイムの「ゼネラル・クロソ」になんともいえない気分になったり、最終回を高校の理科教室に忍び込んで(ほぼ私物化していた)友人とこっそりみながら、オリジナル・オージの迫力に思わず声を上げたりした、そういう金曜夕方5時の新作としての富野アニメ、のはずだったわけなんだよ。
(A機)>はぁ、その頃のことはぼくはちょっと分かりませんけど。たしか一年くらい前にもそんなこと書いてましたっけ。
(栄輝)>そうだっけ。まぁ、正直こんなことをまとめる時間もなかなかない状況だけど、そういう何年も富野アニメ(とキャラクタープラモデル)にべったりと寄り添うように十代の日々を送った自分にとってのゼータガンダムというのは、いろいろ思うところがあったわけなのよ。
(A機)>さて、時間切れのようですが続きはいつ読めることやら。
posted by 多村えーてる at 22:46| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Ζ GUNDAM | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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